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2013年2月1日金曜日

天皇制

天皇制(てんのうせい)とは、天皇に関する事柄を「制」(制度・体制)と位置付ける観点からの俗称(宮内庁による正式な呼称は皇室制度)。或いは、天皇を「統治権の総攬」者ないし「象徴」とする近現代の日本の立憲制度・体制のみを特に指す場合もある。似た概念として、「皇統」や「国体」があるが、思想や観点によってそれぞれ使われ方が異なる。

概要


「天皇制」という用語は「君主制」を意味するドイツ語 Monarchie の和訳とされ、本来はマルクス主義者が使用した造語であった。1922年日本共産党が秘密裏に結成され、「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。1932年のコミンテルンテーゼ(いわゆる32年テーゼ)は、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえ、日本でこれを「天皇制」と訳し、天皇制と封建階級(寄生地主)・ブルジョワジー(独占資本)との結合が日本の権力機構の本質であると規定した。第二次世界大戦が終結するまで「天皇制」は共産党の用語であり、明治後期から敗戦までは「天皇制」と表現することは反体制であるとみなされ、一般には認知されていなかった。
現代では(共産党とは関係なく)マスメディア等、一般でも使用されている。

天皇制という表現への批判


ただし、天皇制という語の由来からこれを忌避して「皇室」という表現もよく用いられ、中にはあえて「国体と表現するケースもみられる。歴史学者の間では、天皇が国家統治機構の前面に登場する近代以前の国家体制に適用することに対して批判もある。漫画家の小林よしのりは『ゴーマニズム宣言[要出典]にて「その由来だけでも使うべきではないが、より本質的に言うと天皇は「制度」として存在しているわけではないから使うべきではない」と批判した。谷沢永一は2001年の著書で「天皇制という呼称は、天皇陛下ならびに皇室を、憎み、貶め、罵るための用語であり、国民としては、伝統に即して、皇室、という呼称を用いるのが妥当であろう」と述べ、また谷沢によると、小説家の司馬遼太郎は「天皇制という語は、えぐいことばであり、悪意がインプットされている」と述べたという。
以下、古代以来の天皇と政治体制との関わりを中心に解説する。

歴史


古代


歴史学上、皇室は古墳時代に見られたヤマト王権の「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」(あるいは「大王(おおきみ)」)に由来すると考えられている。3世紀中期に見られる前方後円墳の登場は統一政権の成立を示唆しており、このときに成立した大王家が皇室の祖先だと考えられている。大王家の出自については、弥生時代の邪馬台国卑弥呼の系統を大王家の祖先とする説、大王家祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。当初の大王は軍事的な側面だけではなく、祭祀的な側面も持っていたと考えられる。
7世紀後半から中国の政治体制に倣った律令制の導入が進められ、701年の大宝律令によって律令制が確立した。国号(日本)と元号(大宝)が正式に定められ、歴代天皇に漢風号が一括撰進された。こうして天皇を中心とした中央集権制が確立し、親政が行われた(古代の国体「建国ノ體」)。710年には平城京に遷都した。
9世紀ごろから貴族層が実質的な政治意思決定権を次第に掌握するようになっていった。10世紀には貴族層の中でも天皇と強い姻戚関係を結んだ藤原氏藤原北家)が政治意思決定の中心を占める摂関政治が成立した。
11世紀末になると天皇家の家督者たる上皇が実質的な国王(治天の君)として君臨し、政務に当たる院政が始まった。天皇位にある間は制約が多かったものの、譲位して上皇となると自由な立場になり君主としての実権を得た。院政を支えたのは中級貴族層であり、藤原氏(摂関家)の地位は相対的に低下した。

中世


鎌倉武家政権が成立すると、天皇・上皇を中心とした朝廷と将軍を中心とした幕府とによる二重政権の様相を呈した。承久の乱では幕府側が勝利を収めた。だが、天皇側の勢力もまだ強く、鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇が天皇親政を復活させた。建武の新政参照。
室町幕府が成立すると天皇は南朝・北朝に分裂した(南北朝時代)。長い戦乱が続いた末、室町幕府の3代将軍足利義満によって南北朝の合一が果たされた(1392年)。義満は幕府の権力を強化するとともに、「日本国王」として皇帝に朝貢する形式で勘合貿易を行った。義満の死(1394年)に際して朝廷は「鹿苑院太上法皇」の称号を贈った(これらのことなどから、義満が皇位を簒奪する意図を持っていたと考える史家もいる)。
8代将軍足利義政の時代に応仁の乱が起こり、やがて戦国時代に入り、幕府の勢力は衰えた。戦乱の世にあって、天皇・朝廷の勢力も衰えていったが、主に文化伝統の継承者としての役割は存続していた。

近世


織田信長豊臣秀吉も天皇の存在や権威を否定せず、政治に利用することによって自らの権威を高めていった。江戸幕府のもとでも天皇の権威は温存されたが、「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」とする禁中並公家諸法度が定められ、朝廷の立場は大きく制約されることになった。紫衣事件などにみられるように、年号の勅定などを僅かな例外として政治権力はほとんどなかった。
幕府が学問に儒学朱子学を採用したことから、覇者である徳川家より「みかど」が正当な支配者であるという尊王論が水戸徳川家(水戸藩)を中心として盛んになった。

尊皇攘夷論

江戸時代末になると尊皇攘夷論が興り、天皇は討幕運動の中心にまつりあげられた。尊王攘夷論は、天皇を中心とした政治体制を築き、対外的に独立を保とうという政治思想となり、幕末の政治状況を大きく揺るがせた。吉田松陰の唱えた一君万民思想は擬似的な平等思想であり、幕府の権威を否定するイデオロギーともなった。しかし、尊皇攘夷派の志士の一部は天皇を「玉」(ぎょく)と呼び、政権を取るために利用する道具だと認識していた。

明治維新


江戸幕府が倒れ、明治の新政府は王政復古太政官制を復活させた。なお、真の統治者が将軍ではなく天皇である事を知らしめるため、当時、九州鎮撫総監が“将軍はいろいろ変わったが、天子様は変わらず血統も絶えずに存在する”という趣旨の文書を民衆に配布している。京都府もやはり天皇支配を周知すべく告諭を行なっている。更に新政府は行幸をたびたび行なった。
ヨーロッパに対抗する独立国家を創出するため、明治政府による中央集権体制が創られた。明治政府は不平を持つ士族の反乱や自由民権運動への対応の中から、議会制度の必要性を認識していった。日本の近代化のためにも、国民の政治への関与を一定程度認めることは必要であり、近代的な国家体制が模索された。モデルになると考えられたのは、ヨーロッパの立憲君主国であった。


立憲君主制

大日本帝国憲法の制定により、日本は立憲君主制になったとされる。大日本帝国憲法を起草した伊藤博文も、天皇に絶対君主の役割を期待するようなことはなかった。法文を素直に解釈すると、“万世一系の天皇之を統治す”、“神聖にして侵すべからず”など、大日本帝国憲法においての天皇は大きな権力を持っていたように読めるが、明治以降も、天皇が直接命令して政治を行うことはあまり無く、明治憲法制定後も当初は、藩閥政府が天皇の権威の下に政治を行っていたのが、後には議会との妥協を試みるようになった。この点について「君臨すれども統治せず」という原則をとる現代の日本やイギリスなどの近代的立憲主義とほぼ同じであったという意見がある。
一方、統帥権をはじめとした軍について、議会、内閣の関与が受けられない他、議会の関与を受けない枢密院の力が巨大であること、憲法上にない元老内大臣が天皇の権威によって、政治に介入できるほか、解釈上法律で基本的人権を無制限に侵害することが可能とも読める(留保を定めた「臣民の義務に反せず法に定める範囲内で」の文言が各所にある)ため、憲法学者の間[誰?]では外見的立憲主義でしかないとする意見が通説である。


統帥権

衆議院において政府に反対する勢力が多くを占めることを予想して、貴族院に衆議院と同等の権限を持たせている。 実際に政治を運営するのは、天皇でなく元老内閣(藩閥政府)の各大臣である。行政権は国務大臣の輔弼により天皇が自ら行うものとされた。大日本帝国憲法では、内閣の大臣は天皇を輔弼するもの(総理大臣も他の大臣と同格)と規定された。しかし、最終的な政治決断を下すのは誰か、という点は曖昧にされていた。対外的には、天皇は大日本帝国皇帝であるが実際の為政者は内閣としていた。内閣は憲法ではなく内閣官制で規定されており、内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの対等な地位とされた。
この構造の欠陥が昭和に入ってから野党や軍部に大きく利用されることとなった。「軍の統帥権は天皇にあるのだから政府の方針に従う必要は無い」と憲法を拡大解釈して軍が大きな力を持つこととなった(権力の二重構造、統帥権干犯問題)。軍部が天皇直隷を盾に独走・政府無視を続けて、もはや統制できない状況になるケースもあった。二・二六事件の際は昭和天皇が激怒し、重臣達に「お前達が出来ぬと言うなら自分が直接鎮圧に行く」とまで述べたため、反乱軍は鎮圧された。また、終戦の際、ポツダム宣言の受諾・降伏を決定することは総理大臣にも出来ず、天皇の「聖断」を仰ぐ他なかった。しかし、天皇は立憲君主としての立場を自覚していたため、上御一人(最高権力者)であってもこの2例を除いて政治決定を下すことはなかった。こうした政治的主体性の欠如した統治機構を、政治学者の丸山眞男は「無責任の体系」と呼んだ。

戦前の論評

「日本の失敗を天皇制のせいだと非難はしても、日本の成功に関して天皇制を褒めることはしなかったのが戦後歴史家たちであるが、これと異なり、明治知識人たちは日本の進歩の功を天皇に帰しはしても、その短所を天皇のせいにはしなかった」という指摘が、明治時代と戦後の天皇制に関する論評の違いについてなされている。

皇室擁護派の意見


「世界最終戦を経て、全人類が天皇を現人神(あらひとがみ)として信仰し、天皇の霊力によって世界を統一するべきである。」(天皇の世界征服による世界平和の実現)
大日本帝国陸軍参謀であった石原莞爾は、「人類が心から現人神(あらひとがみ)の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。」と主張した。「我らの信仰に依れば、人類の思想信仰の統一は結局人類が日本国体の霊力に目醒めた時初めて達成せられる。更に端的に云えば、現人神(あらひとがみ)たる天皇の御存在が世界統一の霊力である。しかも世界人類をしてこの信仰に達せしむるには日本民族、日本国家の正しき行動なくしては空想に終る。」とも主張した。

皇室批判派の意見

前は国体批判そのものが大逆であったため、その思想は地下に潜伏し日の目を見ないものであったか、あるいは徹底的に弾圧される種類のものであった。憲法論においては機関説などが登場したものの、思想の趣旨として国体批判を意図するものでは全くないにもかかわらず結果として政界を揺るがす大事件に発展した(天皇機関説事件)。無政府主義の主張は許容されず滝川事件なども発生した。
戦前「天皇制」という言葉は、ごく少数がひそかに使用する以外まったく日本国民に知られていなかったという。この言葉は日本製ではなく大正12年(1923年)3月15日ソ連共産党が指導するコミンテルンから日本共産党にもたらしたもので、天皇制打倒、天皇制廃止を専一にめざす、天皇と皇室を憎みおとしめ呪う造語である、戦後になって、日本国民は「天皇制」という言葉を「赤旗」(昭和25年10月20日)により初めて知った、これと呼応するように「民主主義と天皇制はあいいれない」なる議論が発生した(谷沢永一)とする。
(保守派の)中西輝政は、ソ連が「天皇制」の廃止に強い執着を見せたのは、1927年のコミンテルンの日本共産党への指令(27年テーゼ)以来、一貫していた「日本革命」を可能にする唯一の道は、ロシアと同様「帝制の打倒」がカギだ、という考えからであり、日本がアメリカ陣営に組み込まれても「天皇制」廃止だけは必ず実現させねば、というのがスターリンの執念であった、そこから戦後日本では左翼・左派勢力は一貫して、不自然なほど「反天皇」「反皇室」を叫び続けることになった、とした。

戦後の論評

第二次世界大戦が終わると、共産主義や近代政治学(前記の丸山眞男ら)の立場などから「天皇制批判」が数多く提議された。1950年代から1960年代には、共産主義者を中心に天皇制廃止を訴える意見もあった。昭和天皇崩御の際、テレビ朝日の『朝まで生テレビ!』で天皇および「天皇制」の是非について取り上げられた。しかし、これ以降、この問題を積極的に取り上げるマスメディアはほとんどない。
日本共産党は2004年に綱領を改正し、元首化・統治者化を認めないという条件の下、「天皇制」の是非については主権在民の思想に基づき国民が判断すべきである、という趣旨に改めた[10]

皇室擁護派の意見 

  • 「思想取締りの秘密警察は現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する。……さらに共産党員であるものは拘禁を続ける……政府形体の変革、とくに天皇制廃止を主張するものは、すべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕する」 内務大臣山崎巌1945年10月
  • 「天皇制の下に他国とは趣の異なったデモクラシーの運用が行われねばならぬ」(安岡正篤・1945年12月) 。
  • 「天皇を現人神と仰ぎ奉り皇国を毒する内外一切の勢力を打滅せん事を期す」「大日本帝国憲法の復活」「核武装による皇軍再建」(大日本殉皇会、1961年設立の右翼団体
  • 「天皇制の下に日本民族の主体性を把握」(治安確立同志会、1952年設立の右翼団体) 
  • 「日本の皇室の系図は、まっすぐに神話時代に遡りうる。これは、ギリシャで言えば、アガメムノンの子孫が、ずっと今もギリシャ王であり、イギリスで言えばアルフレッド大王の直系の子孫が、まだ王様である状態に近い感じで、外国人には驚天動地の現実である」(渡部昇一 1990年6月) 。

皇室批判派の意見

  • 坂口安吾・1946年6月)「天皇をたゞの人間に戻すことは現在の日本に於て絶対的に必要」。
  • 宮本百合子・1949年2月)「天皇制が侵略戦争をはじめた」
  • オウム真理教による“日本シャンバラ化計画” (=オウム国家の樹立計画)、1990年代 )「オウム国家樹立に伴い、神道に基盤におく皇室は当然の如く廃止され、新たに葛城等のを与えて民籍人とする。代わって麻原一族が皇族となる。」等々。
また、特に昭和天皇に関しては第二次世界大戦当時、日本軍の最高指揮権を有していたにもかかわらず、敗戦後にナチス系の勢力を徹底的に追放したドイツや君主制を廃止したイタリアとは違い、軍事裁判でA級戦犯として裁かれることがなかったこともあり左派や諸外国からの批判もあったため、保守派の一部からも昭和天皇退位論が出ていたこともあった。

世論調査

天皇制絶対主義もしくは絶対主義的天皇制とは、日本近代における近代天皇制の体制を講座派において定義した言葉。
明治維新後の政治体制を、絶対主義とみなし「絶対主義天皇制」と規定したのは、主に唯物史観を取り入れた左派歴史学者である。この場合、明治維新から第二次世界大戦までの日本の政治体制は絶対主義であり、明治維新ブルジョワ市民革命ではなく、不十分な改革であったと評価される、社会経済史理論の一形態である。
これに対して、「自由主義史観」では、歴史解釈は「類似」し、「平行」する現象の存在により成立するので、幕府が外交権・貿易権を有した江戸時代がすでに絶対主義体制であったと考えられる、としている。
また、啓蒙君主と比較して論じる者や、明治維新を市民革命と比較する視点もある。



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